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6回の転職を経験しフリーランスに転向した40代男性エンジニアのはなし

40代男性エンジニアが多様なキャリアを経てフリーランスになったはなし。大学時代からスタートアップ、地元企業、そしてフリーランスと、多くの選択と挑戦を経て現在に至る。今は自分のビジネスを拡大する夢を見ている

公開日:2023年10月16日

最終更新日:2023年11月28日

目次

コラム : いろんなキャリアについて

「コラム : いろんなキャリア」では現役エンジニアさんから実際に聞いた話をまとめています。ご本人に配慮し、多少の脚色を加えていますのでフィクションとしてお楽しみください。

以前X(Twitter)で投稿していた#いろんなキャリアの再編集版です。イベント情報、メディア情報を発信してますのでフォローしてくれると喜びます。

6回の転職を経験しフリーランスに転向した40代男性エンジニアのはなし

はじまりはHTML


日韓ワールドカップの開催、初の日朝首脳会談、そんなワードがニュース番組を飾る時代。

彼は関東の大学で勉学に励む傍ら、HTMLとCSSを触っていた。

当時はWebページが作れるだけである程度お金になった時代。

友人が起業をすると言い出したことに刺激を受けて、Web系の技術に触れるようになった。

技術自体に面白みを感じた彼は、2chの掲示板や書籍を漁り、一通りの技術を身につけるまでになっていた。

そして、大学在学中ではあったが、友人の会社を手伝うことにした。

初めは手伝い程度であったが、勝ち気な友人に引っ張られ、Webページ開発だけでなく、受託開発なども行うようになっていた彼は、いつの間にか学部から大学院に進学していた。

どんどんと手伝う頻度も増え、友人の会社に気持ちが傾いていった。

修士を取得したところで、就職のことも考えたが、結局、友人の会社でエンジニアキャリアをスタートすることにした。

当時はPHP(生PHP、たまにCakePHP)で開発することが多く、DBはMySQL、サーバはFedora、フロントはHTML、JSなどの構成でECサイトを作る仕事が多かった。

サブプライム問題、リーマンショックが騒がれはじめた頃、友人の会社の年商は5000万円程度まで増え、社員も10名程度となっていた。

友人からは幹部的なポジションを求められていたが、この頃には、考え方が合わないことに気づいていた。

友人は「いくぜ一兆円!」というような勢いはあるものの、とにかく具体性がない。

実際には会社は現場社員の頑張りによって支えられているわけだが、社員の給料も安く、長時間労働も慢性化している状況だった。

違和感を感じ自分自身も気持ちが追いつかず、一従業員として友人の会社を見るようになっていた。

遅咲きの社会人デビュー


結局、彼は友人の会社を離れた。

ただ世の中は不況。

経済状況も暗い中、いきなりの転職活動はとても厳しいものだった。

しっかりとした会社でキャリアをスタートさせていない彼にとっては初めての経験が多かった。

とにかく今ある募集に応募をし続けて、落ち続ける。そんな就職活動だった。

なんとか引っかかった会社は短期の研究機関職員。

大学院時代の専攻がうまく生かされた形だった。

ただ、彼自身はエンジニアリングを続けたいと考えていた。

研究職が満期を迎え、再び転職活動を始めた彼は、その後、小さなスタートアップの会社に入った。

そこで目の当たりにしたのは、積極的にフレームワークやライブラリを活用する開発手法。

いままで自分がやってきたことはもうすでに古いものになっているということを知った。

時代の変化を感じた。

なんとか追いつこうと考えたが、若手の優秀なエンジニアの技術力やビジネス力に圧倒されたのが正直なところだった。

28歳になる頃、地元でのんびり暮らしたいと考え、東京から離れ実家に帰った。

地元の安定した企業でゆったりと生活を送ろうと考えたのだ。

そして、地場のサービス業を営む会社に入社した。

主な仕事は、COBOLで書かれたシステムのメンテナンス。

とにかく属人化されまくり、バージョン管理もしてない中、既存ソースを読み解くところから地道に1人で修正を進めた。

仕事自体は安定していたが、技術も人間関係もあまりに古い体質。ここで骨を埋めるのもまた違うと思った。

模索する日々


30歳になった。

東京に戻ろうと思い、SES系の会社に転職をした。

人不足のためすぐに採用された。地元会社でのCOBOLの経験もあり、某銀行の案件にいってくれと言われた。

厳しい現場という噂は知っていたので内心嫌だったが、実際に入ってみると意外にも性に合っていた。

石橋を叩いて進む開発・テスト。

目の前の仕事をやっておけばある程度の評価がもらえること。

人間関係の煩わしさもない。

待機しても基本給はでる。

バッチ処理系のシステムだったため、ShellやPerl、VBAなどの知識も身についた。

ただ、キャリアは見えなかった。

35歳、40歳となった時に案件がとれるのか、社内失業は起きないのか、といった心配が常に心にあった。

結局、2年経って転職することにした。

次は、介護業界向けの自社サービス会社に転職をした。

CTO候補の肩書きだった。

彼としてはエンジニアリングをしたかったのだが、実際に働いてみると、事業立ち上げからやってほしい仕事だった。

ある意味チャンスではあったがさすがに厳しかった。

サービスを作ってほしいし、それを売ってもほしい。

ほとんど自分1人でやるようなものだった。

エンジニア、ビジネスマンどちらとしても不完全燃焼のまま転職する結果となった。

次の会社はWebサービス系の会社。

具体的には歯医者向けの予約システムの開発を行っていた。

Webサービス系ではあるが営業意識が高く、営業部門が花形的なポジションの会社だった。

彼の仕事内容はすでに稼働して4、5年経つWebシステムのリファクタリング、Ruby on RailsからCakePHPに作りかえようというものだった。

ある程度組織化がされており、開発は問題なく進めることができた。

加えて、うまく事業の波に乗れた。

入社したタイミングでサービスがグロースしはじめ、入社してからのユーザ数は2倍、3倍、4倍と増えていったのだ。

入社時は赤字だったが、黒字化も経験できた。

一方で、エンジニアの待遇はあまり上がらなかった。

エンジニアと経営陣で考え方に食い違いもあり、エンジニアがぽろぽろと辞めていくという状況が続いていた。

具体的にはユーザの要望に応えて新機能を追加したい経営陣と応答速度などの非機能面に不安を感じるエンジニア勢という構図だった。

ただ、彼にとっては年収が上がらないことが一番の問題だった。

今の会社では給料面での上昇をあまり期待できなかったのだ。けれども、転職したい会社も思いつかない。

友人との起業、スタートアップ、事業会社の社内SE、SES、パッケージソフトウェア、Webサービスと一通りの経験をしてきたのである。次に何をしようか、不満はあるが目的が明確にあったわけではなかった。

生き方を変える


そんな時、フリーランスという選択を知る。

具体的に調べてみると今のスキルであれば、今の会社よりも収入が上がる見込みだった。

すぐに4つぐらいエージェント系のサービスに登録してみた。

すると意外と案件があることを知った。

30代後半で決断するのも覚悟が必要だったが、会社との折り合いもつかずフリーランスにチャレンジすることにした。

現在はフリーランスから法人成りをし、1人会社として働いている。

売上だと以前の2倍、収入で考えると1.6倍程度にはなった。案件も自分の身を削れば意図的にコントロールできる。

コロナ禍初期は心配ではあったがなんとかやれてきた。

人間関係も仕事を中心に回るようになった。

当時は会社員に比べて成長しにくいとの話もあったが、それも仕事の進め方次第だと感じる。

とにかく、良いことも悪いこともダイレクトに自分に響いてくる。

そういう環境がやってみると性にあっていた。

今後は会社を拡大していきたいと考えている。

働く時間は1日12時間でも15時間でも働いていいやと思っている。

正社員に戻りたいとは思っていない。そんな40代男性エンジニアのはなし。

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